理系夫婦のうたたねブログ

理系夫婦が好きなことを書いていきます。旦那は医師では有りますが、医学的助言は一切おこなっていません。

python進捗

旦那です。

 

仕事が忙しいのに加えて、結婚式準備などで放置していた・・

年度初めの公約どおりpythonやってますっていう自己顕示。といっても進捗というほど勉強できていないから自己顕示にもならんだろう。

 

最初はこれで勉強してた。

 

実践力を身につける Pythonの教科書

実践力を身につける Pythonの教科書

 

基礎はこれで勉強するも、途中で断念

次はこれを読んでみてガチャガチャ動かしてみるも、基礎力足りず。

 

 一応最後まで読み、deep learningの基礎とかをさらっと勉強することはできた。けど書いてあるコードの細かい部分は理解できず、なんで写経したコードが動くのかがよくわからずにおわってしまった。

次に目をつけて、今取り組んでいるのがこれ

 

これは面白い。まだ7章だが知らないことがたくさん出てくる。

まあもちろん最初の教科書をきちんとやっておけばよかったのだが、なんとなくやる気が無くなってしまったのだ。

今読んでいるこの教科書は章末に問題が載っていて、その問題を考えるのが楽しい。僕の書くプログラムは、きっと上級者が見たら汚いコードなんだろうが、それでもなんとか動くものを作り出せたときは嬉しい。

 

実験をやっていたときも、道具を自作したりするのは楽しかったし、独学で無茶苦茶なコードを書いて画像解析しようと悪戦苦闘していたときも楽しかった。机に向かって論文を読むのももちろん好きなのだが、自分の手を動かして何かを作るのも意外と好きなんだろうなと改めて思った。

 

ちなみに今研究室を見渡すと昔作ったガラクタが転がっているんだが、一番使い道ないのは直径80cmくらいのダンボールで作った円盤 捨てようと思いつつも、なかなか重い腰が上がらない。

アリとキリギリス、引きこもる私

旦那です。

 

悪口が苦手です。

どんな種類であっても悪口が苦手です。悪口を言われているのが、友人だろうが同僚だろうが、上司だろうが全く見知らぬ他人だろうが嫌いです。幸いにして自分が言われている悪口を直接聞くことは今までの人生では数えるほどしかなかったのですが、もちろん自分が言われるのも嫌です。

 

 

私が悪口を嫌いなのは、倫理的に問題があるとか言われている人が可愛そうとかといった理由ではありません。ただ単純に、自分が言われることが怖いのです。眼の前の人はここで他の人の悪口をいったあとに今度は違う人のところで自分の悪口をいうのではないか。そう考えるのが怖くて、私はひたすらに悪口が嫌いです。

 

私がさらに卑怯なのは、徹底した事勿れ主義を貫いていることです。もっと言えば私の生活が平穏でありさえすれば良いと考えていることです。悪口を言われている相手のことを気の毒に思い、心の中でさえかばいこそすれ、私は言葉に出してかばったりしません。悪口を私にいうことで、悪口を言う人が私を悪口の共犯者に仕立てようとしているかはわかりませんが、私は言われている人をかばわないことで、自分も共犯者のように思っています。それも悪口が嫌いな理由です。

 

そのように意識しているせいか、私は職場でかわされる悪口には多少敏感になりました。私が聞く最も多い悪口の構図は、勉強や仕事を一生懸命やっている人がそうは見えない人のことを悪く言うという構図です。これは私のまわりに医師が多いことに関連するのではないかと思います。現に医学部のころに聞いていた悪口も似たようなものでした。そしておそらくですが、そのタイプの悪口は幼少期から主に勉強について競争にさらされ続けてきたことが関係しているのではないでしょうか。勉強していれば褒められたし、結果も出るという環境でずっと生活していれば、勉強していることや働いていることが善で、そうでないものは悪であると考えてしまうのはある意味でしょうがないのかもしれません。

 

もちろん世間一般的にも頑張ることは善いこと、サボることは悪いことでしょう。でも私にはその常識を持って他人を責めることはできませんし、そうやってだれかを糾弾している人の話を聞くのも嫌です。

 

糾弾して、なにかよいことがあるでしょうか。その行為で頑張っている人の仕事は減りません。サボっているように見える人の仕事は増えませんし、そもそもサボっているように見える人は本当にサボっているのでしょうか。

 

かといって糾弾している人が全て間違っているともいえません。きっと正義感が強く、いつもぎりぎりまで頑張っているのでしょう。そういった人たちが損するのはそれはそれでおかしいことだとも思います。

 

頑張りたい人は頑張ればいい。頑張りたくなくてそこそこでいい人はそこそこでいい。サボりたい人はサボればいい。心のそこからそう思うのです。もちろんサボっていれば社会や雇い主からの良くない評価に結びついて最終的に損をするかもしれません。その責任はその人が引き受けるべきです。そのように考えているせいか、私はときに冷たく見られてしまうようです。でもそれでいいと思っています。

 

 

 

冒頭から悪口が嫌いだと何度も言いました。そうはいいつつ私も悪口を言っているときがあります。現にこの文章でさえ、私の頭の中にある悪口を言っていた人たちへの悪口であるかもしれません。そういった意味で悪口を全くなくすことはできないのかもしれません。しかし一つ悪口を言わないために大事にしている言葉があります。

 

私の高校生のときの恩師が私にいった言葉です。

"人を評価してはいけない"

高校の先生

 必ずしもいつも正しくはないと思います。会社の中で人事にかかわる部署にいたり、何かのチームリーダーになったりすれば評価をせねばならない時もあります。でも、それ以外の状況であれば誰かを評価することは必要ないと私も思います。評価するということはそれがいい評価でも悪い評価でも、対象に対して上の立場に立っているように思ってしまっています。評価すればそれは悪口につながります。「あの人はあれができない。あの人はああしてくれない。」

まだまだ未熟にも至らない私は、くれぐれも人を評価しないように気をつけねばならないと思っています。それができないなら、私はきっと引きこもって家から出てこないべきなのでしょう。

医学とサイエンス

旦那です。

 

 

"医学はサイエンスなんだから"

とある医師

 

とある先生に言われた一言です。

 とっさに、そうとも言い切れないんじゃないかなーと思ってしまいました。でも考えてみればどうなんでしょう。おそらく答は「(特に臨床)医学はサイエンスとそれ以外の融合した領域」という様な玉虫色の結論になるでしょうが、ちょっと考えて見ました。

 

 

 Wikipediaを嫌悪する方も理系には多いですが、こういうちょっとした調べ物にはすごく便利ですよね。

科学 - Wikipedia

科学は狭義には自然科学を示している様です。自然科学とは上のページによると

自然の成り立ちやあり方を理解し、説明・記述しようとする学問の総称

とのこと。この考え方であると医学の中でも病気の成り立ちを考える病理学や人間の臓器などの機能を考える生理学などは満たしそうですね。

 

 一方臨床医学、というより私たちの日常の業務はどうでしょう。日々行うカルテ記載や検査、薬剤の処方などは科学でしょうか。医局に戻って論文を読んで仕入れるエビデンス達は科学的でしょうか。

 わたしは時折疑わしく思う時があります。なるべく根拠のないことはしたくないと考えているので、時間があけば調べてみてはいます。でもエビデンス不明の治療があったり、論文をいくつか調べて波風が立たない様に意見してみても、経験でわかると言われてしまったり、挙句は風習だからと言われたり・・・

 しかし私はまだまだ修行の身、というよりそれ以前のひよっ子、上の先生方の豊富な経験や膨大なエビデンスは頭の中にありません。そんな私だからこそ、先生方の頭の中を理解することができず、理路がわからないために科学的でないと感じてしまうのかもしれません。

 

 でもここで自己否定だけしていても進歩がありません。もう少し考えてみましょう。科学に関して考える時、よく読んでいるのは以前の記事

 

med-ruka.hatenablog.com

 で紹介した本です。この本の中で述べられていますが、誰が科学者であるかは何をするかで決まります。同じく、とある行為が科学的であるかは、どの様に行なっているかによって決まると考えています。

 

 そう考えると医学部は理系に分類されていますが、医師が全て科学者であるかどうかというとは私はそうではないと思います。先に述べたとおり、慣習の様な治療を行う医師もいれば、一人一人の患者さんに向き合って理解しようとする医師もいます。加えて、私の日々の業務も全てが科学的であるとは考えておりません。

 科学ではない医学というとみなさんはどの様なものをイメージするでしょうか。おそらく極端なものとしてオカルト的な治療が出てくるのではないかと思います。その様なあからさまなものに病院で出会うことは少ないと思いますが、実は臨床現場には科学的ではない検査や治療があふれています。

 

 私の考えでは臨床医学は、(少なくとも現時点では)全てを科学的にはなし得ない学問であると考えています。それは決して悪いことではありません。

 医学は未解明の疑問が大量に残された学問です。すでに得られている知見はわずかです。くわえて得られている知識をそのまま適応できることは少ないです。そんな状況で目の前の患者さんを良い方向に導かなければならないという厳しい状況です。そんな中で頼りになるのは決して科学だけではなく、言葉にできないアートの要素もあると考えられます。

 論理を用いて目の前の患者さんを理解しようとし、説明しようと努力している限り、その医師は広義での科学者であると言っていいと思うのです。

 

 そう言った意味で医学はサイエンスなのだろうなと思いました。少し考えてみてよかったです。日々の全てから、学びましょう。

 

 

 

てーらーめいど

旦那です。

 

"できない治療はやってはいかん"

職場の上司

 

これだけだとナンノコッチャって感じですね。

とある患者さんに粉薬が出ていて、上司になんでその薬にしたのか聞いたんです。錠剤でより適切で安い薬があるのになぜかって。

 

僕の提案した薬は、デカイんだそうです。超高齢の患者さんには到底飲めないので、粉薬で代わりのお薬を出したようです。その際に言われたのが上の言葉です。

 

当然に思えますが、大切ですよね。外来で小児を診たときは、粉薬飲めるかなー?とか聞くようにしてますが、今回は失敗です。

 

服薬コンプライアンスとか言われたり、その言葉は良くないから服薬アドヒアランスっていいなさいと言われたりとかしますが、言葉はなんでもいいから患者のことをしっかり考えて、できる治療を行うっていうことが大切なんですね。

 

 

 

 

生きる、あるいは起きる

旦那です。

 

当直明けの、酩酊状態と同じくらい痺れた頭で、浮かんだことをかきなぐります。

当直明け、気をつけて家に帰って、しばらく休んでから出かける用事がありました。駅に行って電車を待っていたとき、隣に並んでいた方が、少し体を傾けました。

その動きが、わたしに話しかけるような動きで、わたしはびっくりしました。眠気覚ましに、音楽を聴いていたので周りの音は聞こえず、一瞬本当に話しかけられたかと思ったのです。

 

現実では何も言葉を交わすことなく、電車にのり、もうその方とはおそらく人生で再開することはないでしょう。しかし痺れた私の頭は妄想します。あの人が私に一つ質問をするとしたら、何を聞いただろうと。

 

今日の私は比較的若そうな私服を着ているし、普段から若く見られることが多い。だとすると大学生だと考えられたかもしれない。

となると専攻を聞かれただろうか。しかし、全く情報がない状態から、何を勉強しているのかということをきくのは流石に飛躍している気もする。そう考えるとやはり最初は身の上に関する質問だろうか。「学生さんですか」というのは無難かもしれないなと、勝手なことを考えておりました。

でもなんとなくですが、「あなたはなんのために生きているんですか」と尋ねられた気がするのです。こんな質問はあまりに踏み入り過ぎていて、見知らぬ隣の人から聞かれることはおそらく有り得ないだろうなと思いつつ、こういう質問がポンと頭に出てくるのは、自分がその質問を自問自答しているのかもしれないと思いました。

 

よく考えたらこんな質問は、見知らぬ人どころか、知人友人、家族の誰にもされたことはないのに。

 

気づけばいつも、自問自答している。即答できる時も、できない時もある。

 

でも、それでいいのでしょう。人生の意味なんて見つかったら見つかったでつまらないし。晩年、振り返って後付けするものなのかもしれないです。

 

だから今の答えは多分こう

「私は私がわかりたいことをわかるために生きています。でもそれだけと決まったわけでもなく、まだたくさんのことを悩んでいます。悩むのは辛い時もありますが、それでいいと思っています。」

 

そんなことを考えていたら乗り過ごした。多分、半分寝てた。

 

 

 

ありがとう

旦那です。

3日坊主突破、でも明日は当直なので更新できないですね・・・

 

"辛い時や怖い時はね、心の中で「ありがとう、ありがとう」って唱えていればいいのよ。そうすれば大丈夫だから。ありがとうってのはすごい言葉だよね。" 

詠み人知らず

職場で聞いた言葉です。カーテン越しに聞いたので、誰が発した言葉かわかりませんでしたが、とてもいい言葉だなと思いました。

 

わたし達は最近のCMの言葉を借りれば「医療人」になってしまっています。それは必要なことではあるのですが、一方で患者さん達の心には意識しなければ近づけないのかもしれません。患者さんが不安であったりする際、ついつい口をついて出てくるのは不安を解消する様な「根拠」の話ばかり。心に寄り添ってこその「医療人」であるとは思うものの、意識していても中々、血の通った会話はできないものです。合併症の確率がどの程度低いのかというパーセンテージや症状に対する対症療法の説明だけではなく、この様な言葉も患者さんの不安を和らげるのに必要なのかもしれないなとつくづく思いました。教えてくださってありがとうございます。

 

言葉の力と腐敗

旦那です。

 

"But if thought corrupts language, language can also corrupt thought."

(思考が言葉を腐敗させるなら、言葉も思考を腐敗させ得る。)

 

ジョージ・オーウェル 1946年 政治と英語 の中で出てくる言葉らしいです。

 

なんとなく見たNatureダイジェストで見つけた言葉です。孫引きになってしまいますね。

 

www.natureasia.com

 

わたし達は言葉に囲まれて生きています。誤った使い方の言葉や悪意のある言葉に囲まれていると思考まで良くない方向に行ってしまうのは当然なのかもしれません。

それは倫理的な意味でもそうでしょうし、科学的にもそうでしょう。

科学の話を少しするなら、科学における言葉は時には枠組みの様な役割を持っていると思っています。自然界の何らかの現象に言葉によって名前をつける時、そこには枠組みを作っていると思うのです。

枠組みである言葉を誤って使用していれば、その上に誤った知識の積み重ねが起こりえます。

正しい言葉づかいを心がけたいですね。