理系夫婦のうたたねブログ

理系夫婦が好きなことを書いていきます。たまに医学っぽいことを書いていますが、あくまで私見です。

アリとキリギリス、引きこもる私

旦那です。

 

悪口が苦手です。

どんな種類であっても悪口が苦手です。悪口を言われているのが、友人だろうが同僚だろうが、上司だろうが全く見知らぬ他人だろうが嫌いです。幸いにして自分が言われている悪口を直接聞くことは今までの人生では数えるほどしかなかったのですが、もちろん自分が言われるのも嫌です。

 

 

私が悪口を嫌いなのは、倫理的に問題があるとか言われている人が可愛そうとかといった理由ではありません。ただ単純に、自分が言われることが怖いのです。眼の前の人はここで他の人の悪口をいったあとに今度は違う人のところで自分の悪口をいうのではないか。そう考えるのが怖くて、私はひたすらに悪口が嫌いです。

 

私がさらに卑怯なのは、徹底した事勿れ主義を貫いていることです。もっと言えば私の生活が平穏でありさえすれば良いと考えていることです。悪口を言われている相手のことを気の毒に思い、心の中でさえかばいこそすれ、私は言葉に出してかばったりしません。悪口を私にいうことで、悪口を言う人が私を悪口の共犯者に仕立てようとしているかはわかりませんが、私は言われている人をかばわないことで、自分も共犯者のように思っています。それも悪口が嫌いな理由です。

 

そのように意識しているせいか、私は職場でかわされる悪口には多少敏感になりました。私が聞く最も多い悪口の構図は、勉強や仕事を一生懸命やっている人がそうは見えない人のことを悪く言うという構図です。これは私のまわりに医師が多いことに関連するのではないかと思います。現に医学部のころに聞いていた悪口も似たようなものでした。そしておそらくですが、そのタイプの悪口は幼少期から主に勉強について競争にさらされ続けてきたことが関係しているのではないでしょうか。勉強していれば褒められたし、結果も出るという環境でずっと生活していれば、勉強していることや働いていることが善で、そうでないものは悪であると考えてしまうのはある意味でしょうがないのかもしれません。

 

もちろん世間一般的にも頑張ることは善いこと、サボることは悪いことでしょう。でも私にはその常識を持って他人を責めることはできませんし、そうやってだれかを糾弾している人の話を聞くのも嫌です。

 

糾弾して、なにかよいことがあるでしょうか。その行為で頑張っている人の仕事は減りません。サボっているように見える人の仕事は増えませんし、そもそもサボっているように見える人は本当にサボっているのでしょうか。

 

かといって糾弾している人が全て間違っているともいえません。きっと正義感が強く、いつもぎりぎりまで頑張っているのでしょう。そういった人たちが損するのはそれはそれでおかしいことだとも思います。

 

頑張りたい人は頑張ればいい。頑張りたくなくてそこそこでいい人はそこそこでいい。サボりたい人はサボればいい。心のそこからそう思うのです。もちろんサボっていれば社会や雇い主からの良くない評価に結びついて最終的に損をするかもしれません。その責任はその人が引き受けるべきです。そのように考えているせいか、私はときに冷たく見られてしまうようです。でもそれでいいと思っています。

 

 

 

冒頭から悪口が嫌いだと何度も言いました。そうはいいつつ私も悪口を言っているときがあります。現にこの文章でさえ、私の頭の中にある悪口を言っていた人たちへの悪口であるかもしれません。そういった意味で悪口を全くなくすことはできないのかもしれません。しかし一つ悪口を言わないために大事にしている言葉があります。

 

私の高校生のときの恩師が私にいった言葉です。

"人を評価してはいけない"

高校の先生

 必ずしもいつも正しくはないと思います。会社の中で人事にかかわる部署にいたり、何かのチームリーダーになったりすれば評価をせねばならない時もあります。でも、それ以外の状況であれば誰かを評価することは必要ないと私も思います。評価するということはそれがいい評価でも悪い評価でも、対象に対して上の立場に立っているように思ってしまっています。評価すればそれは悪口につながります。「あの人はあれができない。あの人はああしてくれない。」

まだまだ未熟にも至らない私は、くれぐれも人を評価しないように気をつけねばならないと思っています。それができないなら、私はきっと引きこもって家から出てこないべきなのでしょう。